巨人軍奮闘記-「希望はないが、金ならある」-

プロ野球、とりわけ読売ジャイアンツについて語ってます。

【松坂世代・最強左腕】

松坂世代・最強左腕】

 大谷翔平田中将大ダルビッシュ有、そして松坂大輔。いつの時代も甲子園のスターは右投げの本格派である。田中、大谷としのぎを削った相手もまた、斎藤佑樹藤浪晋太郎と右投げ投手であった(奇しくも2投手とも夏の甲子園を制した投手だ)。更に、第100回記念となった今年の夏の甲子園の決勝戦も最強世代・大阪桐蔭のエースは大会最速151km/hを誇る右の柿木くんと、旋風を巻き起こした金足農業の150km/h右腕吉田くんの投げ合いとなった。

 投手の球速の高速化が進む現代野球。大谷選手、藤浪投手、則本投手、千賀投手ら近年の右腕は球速が速い印象が強い。今年オリックスの中継ぎでブレークした山本由伸投手も150km/hを超える速球を投げ込み、阪神の若手右腕、望月投手もまた150km/hを超す直球を武器にプロの世界で戦っている。

  しかし、今回はそんな右腕ではなく、あるサウスポーの話をしていこうと思う。確かに甲子園のスターは右腕が多い。しかし、甲子園のスターはプロ野球で活躍してなんぼとも言える。先に挙げた斎藤、藤浪らは現在高校時代の輝き放てていない。甲子園で優勝できたからと言って、その後が順風満帆なんてわからない。もし順風満帆にプロ野球界で活躍が出来るのならスカウトは何も困ることはないだろう。優勝投手に敗れたもの、甲子園未出場の者。逆境を糧に這い上がる選手がプロ野球界で大活躍することも稀ではない。

 今日はそんな甲子園のスターに敗れた天才「左腕」を紹介しようと思う。

 

 

 杉内俊哉。身長175㎝体重82㎏。決して恵まれた体格の持ち主ではないだろう。因みに大谷翔平の身長は193㎝、体重は92kgはである。180㎝超の選手ばかりが集うプロ野球界で、山のように奪三振を奪った男が杉内俊哉だ。

 高校時代、甲子園に出場し、更にノーヒットノーランを成し遂げる逸材であった。これだけでもかなりの野球エリートである。しかし、あの怪物・松坂には敗れてしまった。彼がもし松坂率いる横浜高校に勝利を収めていたらまるで違う現在の野球界になったことだろう。

 野球ファン御用達の松坂世代というワードは生まれなかっただろうし、松坂大輔の名が全国に轟くことはなかったはずだ。延長17回の死闘、PL学園戦もなければ、松坂がノーヒットノーランで優勝を決めた京都成章戦もない世界だ。勿論横浜高校春夏連覇は無い世界である。余談だが、日テレアナウンサーの上重アナも今ほど野球を売りにしてはないだろう。杉内率いる鹿児島実業が優勝したのか、明徳義塾PL学園京都成章、どこの高校が優勝したかなんて定かでない。しかし現実は横浜高校春夏連覇で幕は閉じた。それが松坂世代の始まりと言えよう。

 怪物松坂は栄光のドラフト1位で西武へ入団し、1年目からオールスターにも選出され、当たり前のように新人王を獲得した。

 一方、杉内は社会人野球でプレーをしていた。三菱重工長崎に就職し、都市対抗野球シドニー五輪にも出場した。シドニー五輪には松坂大輔も出場したため、高校日本代表以来の日本代表としての集結となった。

 翌年2001年、ドラフト会議で3位指名を受けた杉内はホークスへ入団することになる。松坂のいる西武と同じパリーグでプロのキャリアをスタートさせたのだ。

 

【プロの壁】

 松坂と同じように1年目から大活躍!!とはいかなかったが、2年目には自身初の2桁勝利を達成しチームのリーグ優勝に大きく貢献した。日本シリーズでは2勝を阪神からあげ、日本シリーズMVPを2年目の若鷹が獲得し多くの福岡人が歓喜に沸いた。

 しかし、3年目にかの有名なブルガリア事件が起きる。2004年6月1日のロッテ戦で福浦選手に満塁ホームランなどを打たれ2回7失点でノックアウトされ、降板した直後に帽子とグローブをベンチで投げつけ、それを制止した女房役であった城島健司選手を振り払い素手でベンチを殴打してしまい両手を骨折してしまった事件である。この事件で当初球団は罰金100万円、謹慎10日を科したが、事を重く見た球団は後日罰金を増額し、600万円の罰金を課したのである。この大怪我により杉内はブルガリア事件の登板を最後に登板機会の無いまま2004年シーズンを終了した。当時の映像は動画投稿サイトなどにアップされているので気になった方は是非見て欲しい。当時は自己管理能力がないだのなんだの批判され、これでは一流投手になれないと叩かれた杉内だが、結果はご存知の通り…。当時まだ若造扱いされていた杉内俊哉の青く脆く熱い心を巨人軍の若手も見習って闘志を燃やして欲しいものだ。

 翌2005年シーズン、うって変わり杉内は目覚しい活躍を遂げる。開幕から抜群の安定感を誇り、4月5月と連続して月間MVPを獲得。その後シーズン終了まで安定感抜群の投球をし、自身初となる200奪三振を達成。18勝に防御率2.11で最多勝最優秀防御率を獲得。さらにパリーグ史上初となるサウスポーの沢村賞達成者となった。前年の骨折から一躍ホークスの投手陣の柱となった彼にファンはさらなる活躍を期待した。いや、何もホークスファンだけではない。2006年から始まったワールドベースボールクラシック、通称WBC。五輪以外の国際大会で世界一を目指すための大事な投手陣の一人として日本野球ファンは彼に期待した。

 WBC自体、王監督率いた侍ジャパンは見事世界一に輝くものの、杉内俊哉は2試合を投げ、0勝1敗、防御率5.40と期待外れに終わった。シーズンに響かなければ良い、そうホークスファンなら誰しも思った事だろう。現実は期待を裏切った。規定投球回に満たず7勝止まり。プレーオフに登板するも敗戦。去年の沢村左腕はプロの高い対策に悩まされた。

 しかし、翌2007年は15勝、更に2008年も2桁勝利を達成し、北京五輪代表にも選出された。2試合を投げ1勝0敗、防御率0.84の成績を残し、見事国際大会リベンジを果たした。勝ち星こそ10勝止まりであったが、奪三振は205年以来となる200越えを果たした(最終的に213個奪い、ダルビッシュとの最多奪三振争いに勝利)。2009年もWBC代表に選出され見事世界一連覇に貢献。役割が普段と異なるリリーフにも関わらず登板5試合、6回1/3を無失点に抑える成績を残した。レギュラーシーズンも昨年度同様、チームのエースとして活躍、2年連続の200奪三振越えで最多奪三振のタイトルを獲得。15勝5敗、勝率.750と抜群の成績を残した。2010年も奪三振は200を超え、エースとしてチームのために左腕は腕を振り続けた。翌2011年、杉内俊哉にとって機転となるシーズンが幕を開けた。

 

【携帯会社】

 2006年以来となる2桁勝利未達成に終わるも、171と1/3イニングを投げ防御率1.94と昨年度を上回る成績を残した杉内。このシーズンは味方打線に恵まれず、QS達成率も91%を記録するなど球界屈指の左腕としてホークスを牽引していた。交流戦、クライマックス、日本シリーズと登板する試合全てに全力を注ぎ、チームの勝利のために腕を振った杉内。しかし、それを評価するフロントの査定方法は「成果報酬型」と言われる前年度の成績・活躍をベースにしたホークス独自の査定方法により、彼のこれまで残した実績、成績は加味されず、それらをキッカケに杉内はFA権を行使し、読売ジャイアンツに4年総額20億円の大型契約を結ぶことになった。背番号はホークス時代背負っていた「47」は当時の絶対的リリーフエース山口鉄也が背負っていたため何番になるのかも非常に注目された。当時の空き番号や杉内の実績を考慮した結果、背番号はエースナンバーの「18」に決定した。18番は2006年以来の着用となり、あの桑田真澄以来の18番選手の誕生となった。FAを行使し、ホークスを去る杉内はホークスとの契約交渉の際、記者に向けてこう言った。「携帯会社と同じですよ。新規の人には優しくて既存の人はそのまま」と。

 

【その後の】

 その後の移籍した杉内俊哉の活躍は巨人ファンならば知っているだろう。現在は怪我のリハビリに苦しみながらも一軍登板を目標に日々の練習を積んでいる彼にまた東京ドームでとびっきりの大声援を送りたいと思うファンは数多くいる事だろう。

 

 先日引退した村田、引退発表をした横浜の後藤ら次々に松坂世代の悲しい報道が目に飛び込んで来る昨今の野球界。杉内俊哉が限界を感じるまで我々ファンは復活を待ち続ける事しかできないが、最後の最後まで、声援を送り続けようと思う。再び東京ドームのマウンドに立つ日まで・・・。